私の心を動かしたががくの体験 その3

「ペンシル型モデルロケットの打ち上げ」

私は東京で教師をしていた時、教科書「高校物理」の執筆をしていた。
10名程の執筆者の中に、元文部大臣・東大総長の有馬朗人先生がおられた。
或る時編集会議のあとで、先生は私にこう言われた。
「今の日本の生徒達の理科嫌いの風潮を正す為に、丁度代々木の青少年センターの宿泊施設が完成したので
中学生対象に、夏休みに、科学の合宿をしたらどうだろうか」と
数日後、私は東京のガリレオ工房の仲間に声をかけ
滝川洋二先生と米村傅治朗先生を伴って、代々木の青少年センターへ行き、有馬先生と四名でその対策を練った。

やがて夏休みの4日間、「夏休み、中学生科学実験教室」が開かれ
全国から集まった100名の中学生とスタッフの先生方が合宿して多くの科学実験が行われた。
このイベントは大変楽しく、数年間毎年行われた。
その実験のプログラムの中に「モデルロケットの制作と打ち上げ」があり、担当したのはモデル協会のスタッフであった。
生徒各人がアメリカ製のモデルロケットキットを組立て、打上げるもので
100m程高く飛ぶロケットを追いかけて、生徒達は歓声を上げていた。
我々もこれはロケットの原理を理解し、科学に興味を持たせるにはとても良い教材だと思った。
アメリカでは50年も前から行われていることも知った。
しかし私は、そのロケットエンジン付きキットは高価であり
また完成したモデルロケットは、誰もが同じ大きさ、形で、打ち上げた高さも同じなら
アメリカ国旗が画かれたパラシュートで落ちてくる様子を見て
一体生徒達の創造性はどこにあるのかと疑問を持った。

平成11年から私はふるさと飯田市に帰り、市の教育委員会と協議して
「巡回科学実験教室」として、「おもしろ科学工房」のスタッフと共に
飯田と下伊那の小・中学校を訪問することになった。
多くの実験メニューの中から、小・中学校が取り上げて欲しいという実験は「モデルロケットの打ち上げ」が最も多かった。
何と8年間で、3000名の生徒達が打上げに参加した。
我々は、モデルロケットエンジン以外はすべて身近にある物を工夫し
生徒各人がそれぞれオリジナルなロケットを作るように指導した。
例えば、先端の尖ったノーズコンはフィルムケースで作り
ボディはカレンダーの原紙を円筒状に巻いてエンジンを固定し
パラシュートはポリ袋を六角形に切って糸をつけ、絵を画いた。
スタッフが6台連発できる大型発射装置を自作し
生徒各人それぞれ工夫を凝らして作ったロケットをランチャーにセットし
5m程離れた位置から各人、5・4・3・2・1のカウントダウンでスイッチを押す。
形も大きさもパラシュートの絵柄も違うオリジナルロケットが100mも高く飛ぶのを見ると誰もが感動する。
生徒達は自分のロケットを回収するため歓声を上げてかけて行く。
あるときこんなエピソードがあった。
夏休みの中学の合宿が野底川上流の広場で行われ、市長・教育長をはじめ市会議員が見学に見えた。
服装の乱れた数人の生徒達は初めから真面目に作る意欲も無く、騒いだり、ふざけたりしていたが
発射音と共に高く上るロケットに気が付くと急に作り始めた。
しかし作り方が分からないので、近くにいた市長さんをスタッフと間違え
「おじさん作り方を教えてくれよ」といって、色々作り方を聞いて熱心に作り始めた。
市長さんの指導で完成すると、発射し、喜びの大声を発しながらロケットを追いかけた。
こうした至って魅力的なロケット打上げの実験も、現在日本の学校では飯田でしか行われていないと思う。

今年6月13日に、日本独自開発の固体燃料で飛ぶロケットで、探査機「はやぶさ」を打上げ
3億kmはなれた小惑星「イトカワ」に上陸し
60億kmの距離を7年かけて飛んで、無事オーストラリアの砂漠に着地した。
このニュースは世界を驚かせた。
糸川英雄博士を中心とした宇宙研究のスタッフの長い間の多くの失敗に屈せぬ不屈の研究への情熱
理学と工学と企業技術者の強い信頼と協力がこの偉業を達成させたのである。
私は学校教育にモデルロケット打上げを取入れるには
現在アメリカから複雑な手続きを経て購入している高価なモデルロケットエンジンも国産に切り替えるべきだと願っている。
世界一を誇る日本の固体燃料ロケットの技術をもってすれば、アメリカのものよりはるかに安価に
精度のすぐれた小型のモデルロケットエンジンも製造が可能であろう。

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